ここからはじまる倫理(原著:アンソニー・ウエストン/翻訳:野矢茂樹,法野谷俊哉,高村夏輝/春秋社)

ここからはじまる倫理
同一性(Identity)を認識することは同時に心を認める、または存在するとみなすことである。と、オレは思っているのだけど、じゃぁ同一性を認識していない場合というのはどういうことなのか、ということに関しては特に深く考えたことは無かった。というのも人間に対しては自動的に同一性を認識しているつもりでいたし、それが普通だと思っていたからだ。むしろ人間以外に同一性を認めることについて興味が向いていたのだ。例えば猫を飼うことになってミケという名前を付けたとする。ミケという固有名を与えることでその猫はあなたにとってミケというかけがえのない、代わりの無い存在となり、同一性を持つことになる。そして同時にミケがあなたを人間という属性(同質性)ではなく、あなたという固有の存在として認識することを期待する。これはお互いに心(魂)の存在を認めあう(ことを期待している)ということである。これを拡張してフィギュアやドールに固有名を与え、同一性、心を見出したりすることが出来るのがオタクの一形態だよなぁとか考えちゃったりするんだけど、それはまた別の話。
そんな思索に本書のカウンター、キタコレ。

銀行の窓口が全面的に機械化されたとしても、私たちはほとんど気にも留めないだろう。どうしてだろうか。これまでずっと機械に対するように接してきたからではないのか。

そう、実は私たちは多くの場合において、人間に対しても心(同一性)を見出しておらず、その役割(同質性)と習慣に従い関係しあっているだけなのだ。確かにこれは社会においてスムーズに生活するために必要なものでもあるかもしれない。全ての人に一個人として接することには無理があるからだ。しかし、他者を何らかの型に当てはめる、レッテル張りをして分かったつもりになるだけ。これではその他者に対して機械的な反応をすることしかできなくなってしまう。そこで生み出される感情もまた、機械的に決定されたものとなるのではないだろうか。そうしてそこから発生した対立が、歩み寄ることが難しいものとなるのは必然だろう。他者を型にはめることで自分の振る舞いを決めることになり、それが二極化を促すからだ。
本書がこのような問題に立ち向かうために紹介する技術は、どれも実践的であり前向きである。そしてなにより想像力を持って創造的に取り組むことの大切さを気付かせてくれるのだ。
同一性・変化・時間
ちなみにオレがこの本を買った理由は野矢茂樹氏の名前があったから。この人の著書が結構好きなのだ。気が付けば後少しでコンプリートじゃね?って状態である。同一性云々は野矢氏の「同一性・変化・時間」の影響がかなり大きい。この本は同一であるものがどうして変化しうるのか?という疑問から始まり、マクタガードの「時間の非実在性」でイライラさせられ、最後はそれを否定して時間の流れを体感させてくれる割と痛快な本です。

野矢氏の著書
そろそろウィトゲンシュタインにいってみようか。