Kanon PRELUDEを観て思ったこと
前回の東映アニメーション版Kanonと同じく、今回の京都アニメーション版Kanonもまた各ヒロインのエピソードを繋ぎ合わせるような形になるのかな?このパターン、ゲームのリプレイ的作品としては楽しめるのだけど、ゲームと切り離した独立したアニメ作品としてはいまいち好きになれない。プレイヤーの視点で存在しうる各ルートを一直線に並べ、それを主人公に辿らせることにどうにも強烈な違和感を感じてしまうからだ。
プレイヤー視点での再構築
Kanon、A I R、CLANNAD、ゲームでは実際に各ヒロインを救う、結ばれるルートが存在する。しかしそれはプレイヤーの視点での話。その世界の主人公にとって、それぞれのルートが唯一の世界であるはずだ。そこで主人公によって救われることにならなかった世界(ルート)は救いが無いということでは無い。それは救いの無い世界ではなく、その主人公によって救われるわけでは無かった世界に過ぎないはずだ。しかし、TVアニメ版KanonやAIRでは主人公が全ての世界に干渉してたりする。これは主人公を通してプレイヤーが行えることであって、主人公が主体的にできることではないし、偶然とするにも無理がある。このプレイヤーの視点での再構築による世界の歪みが、オレに違和感を感じさせる最大の原因のようだ。
重なり合うことで構築された世界
ではゲームのリプレイ的作品ではなく、独立したアニメ作品として違和感の無いものにするにはどうしたらよいのか?これはどうも無理な気がする。少なくとも上記のKeyの作品に関しては。これは作品が最初からゲームというメディアを前提として作られた、多重に構築された世界だからだ。ある特定のルートを取り出してもそれだけでは作品として成り立たない。しかし、全てのルートを取り出して繋ぐことはその世界歪めることになる。この各ルートが平行して存在しうる世界、これはアニメ作品としてはどうにも再現しようがないように思える。